オリジナルコントのブログ

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日々思うこと①

死刑制度について
 
 日本には死刑制度がある、この死刑制度があるという事実は日本のこれまで歩んできた歴史が背景になっている為、その是非を世界各国と比べる事は出来ないと私は考える。
 歴史という物はそれだけ重宝すべきものなのかという疑問が湧く人もいるかも知れない。
 個人個人が歴史を無視して新しい事をやろうとするのは勝手であるが、やはり国家を司る政治に関しては別であろう、その時どんなに魅力的で斬新な制度であっても歴史的に、同じ様な政策が無かったかなど、結果を見比べる作業は必須であると思う。
 また海外では上手く行った事も、日本の国民性に合うかといった問題もある為それをそのまま日本に当てはめれば上手く行くとは到底思えない。
 国民性を醸成させる物は何かというと、例えば気候という物が挙げられる。
 日本の様に海に囲まれている島国で、四季があり、雨も多く山や川や温泉などの水資源が豊富にある国と、中東地域のように隣国と陸続きで、砂漠地帯が多い地域で同じ国民性の訳がない。
 心理学によると人は水が流れる様子を見るだけでもストレス値が低くなるらしい。
 また、中東地域では未だに男尊女卑と思える国々が多いがこれも砂漠を旅する場合、多様な意見があれば話し合うだけで時間を浪費してしまい、全員が死んでしまう。
 よって何があってもリーダーの意見になるべく全員が従うような国民性、民族性が生まれた側面がある様だ。
 また人種間によってIQが変わるなどの調査結果もあるが、この場合人間自体は変わらないと仮定しても住む地域の気候によって人間は変わり、その人間が集まった人種によって国家は形成される為、国民性と言われるものは気候よって醸成されるのである。
 先進国と後進国の違いは、国民の違いであるが、その国民の違いとは、歴史的に大陸の形や、機構によって農業が発展してきたかどうかでしか無いのである。
 そしてその国民性を映し出す物がその国の歴史なのでありまたその歴史がその国の法を作っていくのだと私は思う。
 政策の信憑性は歴史で説明出来るのであり、歴史や伝統を無視した失敗例の代表がまさに社会主義国家である。
 しかし社会主義の精神は大変重要であり、たとえ資本主義の国であっても取り入れられるべきであると考える。


 死刑制度について話を戻すと、私は死刑制度についての議論をするには被害当事者の意見を聞くのがやはり一番であると思う。
 結論から言えば、仮に大切な人が殺された遺族の殆どが自分たちの為に死刑制度を反対というのなら、やめればいいと思う。
 しかしその様な話は殆ど聞かない。
 それは、被害者遺族から見て、被害者が殺される動機、被害の状況、犯罪の手口などを考慮して、人として到底理解出来ないからではないだろうか?
 なぜこんな事をしたのか、出来るのか、普通の感覚から見て理解が出来ない。
 また理解出来ないからこそ、憎悪も膨らむともとれる。
 もし死刑制度が無ければ膨らんだ憎悪は、一体どこに向かえば良いのか。
 犯罪者が死ぬ事は、遺族にとって一つの通過点に過ぎないのである。まずそこを通過しない事には話にならない。犯罪者が人の命を奪ったのだから、遺族からしたら、犯罪者の命などでは何も改善されないが、犯罪者がこの世界で生きてる、また刑務所からいずれ出所してくる可能性がある、それだけでそれは、筆舌に尽くせない苦しみなのだ。


 日本ではたとえ犯罪者であっても、即座に警察が撃ち殺す様な事はしない。しっかりと裁判を犯罪者に弁護士付きで受けさせる、各国と比べるのであればむしろその部分だろう。
 死刑制度反対者は死刑が執行されても遺族は救われない、むしろ許すことで遺族は救われると言うが、自分が同じ立場に立ってから言ってもらいたいと思う位にその感覚は特に日本において受け入れられていない。冷徹とさえ私は思う。
 日本の死刑の基準は世界と比べても本当に厳しいと思う、一人ならいかに残忍に、また身勝手に殺そうが反省した態度を取ればまず死刑にはならない。
 人の命の重さという事ではなく、これは社会契約説の観点から言っておかしい。
 その国の国民は本来誰かに理不尽に攻撃をされた場合、報復する権利を持っているのであるが、それでは社会が混乱してしまうので、そういった自然権を一時的に社会に預けているというのが社会契約説である。
 故に国家には残忍な方法で身勝手に多くの人を殺してしまった人間がいる場合、死刑にしてもらわなければいけないと考えるのである。
 更生の可能性の観点から死刑を反対する人もいるが、この世に更生の可能性が無い犯罪者などいるのであろうか。いやいない、全ての犯罪者に生きている限り、更生の可能性はある。しかし、死刑というのはその更生する可能性や機会すら奪うという程の重い刑なのである。
 要は心を入れ替えてこれからどれだけ反省してもそれでも償えない事をしてしまったんだよという事が死刑なのだと私は思う。
 正直死刑の真の恐ろしさは、受刑者本人にしか分からないと思う。
 毎日狭い拘置所で、死刑になる順番を待つ。自分の番じゃなくても刑務官の足音だけで立っていられなくなるくらいの恐怖だろう。想像するだけでゾットする。


 人は解答を求める動物だ、過去に解を求め、未来に解を求め、これで良いのかと常に人生に意味を求めている。
 人は必ず死ぬ、人生で決まってる解はこれくらいなのではないだろうか。
 その答えを追求していけば、いづれいつか死ぬのであれば私は今死んだら良いとなってしまう。
だからこそ、犯罪さえ侵さなければ、どんな人生であっても意味があり、素晴らしいのだとも私は思う。


 人生犯罪さえしなければ、例え人の役に立てなくても、どんな生き方でも私は良いと思う。
生き延びている限り人は必ず誰かの役に立てる時が必ず来る。
 むしろ、他人の役に立つ事に注力し過ぎてしまうと、その為に身を滅ぼす事もにもなりかねない、国家の侵略戦争や、組織ぐるみの犯罪、隠蔽工作などがそれである。
 その際には一番役に立った人間から消される。


 死刑というのは判決が決まってから、まさに刑が執行されるまで、続くのである。
 自分は死ぬ事で初めて人の役に立つ、狭い独房で刑を恐れながら死を待つこの状態を世間様が見て、日々の生活に活されたり、犯罪の抑止力になるのだと思う。
 ドイツ語ではシャーデンフロイデと言うらしいが、組織などで自分じゃ無い誰かが上司や先生に怒られているのを見た時に感じるあの感覚なんだろう。